書評:小笠原博毅・山本敦久『反東京オリンピック宣言』(航思社・二〇一六年発行)

■小笠原博毅・山本敦久『反東京オリンピック宣言』(航思社・二〇一六年発行)
「レガシー」なんていう言葉だけは絶対に使うな!

リオ五輪のフィナーレ。「スーパーマリオ」と化した安倍晋三が地球を貫通してメインスタジアムに登場するというパフォーマンスで、あらためて二〇二〇年の「東京五輪」の持つさまざまの意味合いが強く印象づけられることになった。

安倍首相は昨年(二〇一五年)の通常国会における施政方針演説の最後を「二〇二〇年の日本」というテーマでしめくくっていた。昨年の通常国会といえば、思い起こすまでもなく巨万の人びとが駆けつけた連日の国会行動の中で、安倍政権が憲法を破壊し、戦争法を強行した第一八九国会である。「二〇二〇年の日本」で取り上げられているのは「被災地福島の復興」、二〇一四年末に小惑星に向けて飛び立った「はやぶさ2」の帰還、そして「東京オリンピック」である。しかしそこで明示されていない大きなテーマは、二〇二〇年はすでに「改憲」を実現した「新しい日本」であり、かつ二期六年の自民党総裁任期を延長し、その時まで安倍本人が首相の座にとどまる、という決意表明でもあったことは容易に理解できる。

二〇二〇年東京オリンピックは、権力者たちのそのような戦略にとって、カナメの位置にあることは確かだ。そしてこの目論見に対し、東京五輪に反対する人びとの運動のネットワークがいま手探りの中で作りだされつつある。ここで紹介する『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編航思社刊二五〇〇円)は、内外の研究者、活動家たちによるオリンピック批判の論稿が掲載された、実に多様な視角からのオリンピック批判の書であるが、分量・中身からいっても相当なボリュームがあり、それほど容易に読みこなせるものではない。しかしおそらく二〇二〇年までの四年間に、折に触れて読み返し、参照すべき書であることは間違いない。

ここでは一つのテーマに絞って紹介したい。今日のオリンピックを、いわゆる「災害資本主義」「惨事便乗型資本主義」との関連で捉えることである。ナオミ・クラインなどが指摘する「惨事便乗型資本主義」とは、自然災害、武力紛争、財政危機などにより従来の社会的紐帯が破壊されることに乗じて新自由主義的競争原理に基づく秩序が一挙に導入されることを意味する。鵜飼哲は本書巻頭言の「イメージとフレーム│五輪ファシズムを迎え撃つために」の中で「災害便乗型資本主義の最悪の形態として強行されつつある二〇二〇年東京大会」と強調している。福島原発事故について「アンダーコントロール」の暴言で、東京開催をもぎとった安倍の言にそれは体現されている。

「惨事便乗型資本主義」と表裏一体の関係にあるのが本書で鈴木直文が紹介しているジュールズ・ボルコフ「祝賀資本主義」論である。「祝賀資本主義」の特徴は、統治機構が超法規的措置を乱用する例外状態、過大な経済効果と過小な開催費用の見積もり│負債返済のための増税と緊縮政策による生活への重圧、事前イベントによる興奮の喚起、テロ対策名目の厳重な警備・野宿者排除、環境への配慮・社会参加を隠れ蓑にした搾取の強化、観る者・演ずる者の分断による「スペクタクル」の演出、である。これらの批判は、私たちが多くの機会に実感していることだろう。

ここで、今年六月二日に閣議決定された安倍政権の「ニッポン一億総活躍プラン」(概要)について見ておこう。そこでは「『戦後最大の名目GDP600兆円』にむけた取組の方向」として一六の項目が挙げられているが、そのうち(1)「スポーツの成長産業化」、(2)「二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピック競技大会に向けた見える化プロジュクト」の二つが、直接的な東京五輪関係だ。(2)はどう言っているのか。「二〇二〇年をゴールと見立て、改革・イノベーションの成果をショーケース化して世界に発信、二〇二〇年以降に向けたレガシー(遺産)として後世代へ承継、自動走行、分散型エネルギー、先端ロボット活用など未来を切り拓くプロジェクト推進」だ。

気持ちの悪いオリンピックの「レガシー」なる言葉がメディアでも氾濫しているが、本書を通読すれば、少なくともこんな言葉だけは何が起きても絶対に使うものか、という気になる。そのためにもぜひ読んでください。
*国富建治(反安保実行委員会)/”Alert”6,2016.12