■坂上康博著『昭和天皇とスポーツ——〈主体〉の近代史』(吉川弘文館・二〇一六年発行)
「天皇の身体は『玉体』と呼ばれていた」そしてその「玉体」を強健なものとするために重視されたのが「御運動」(おうんどう)であり、「成長に伴ってスポーツがその中心を占めるようになる」という文章がプロローグにあるように本書は昭和天皇とスポーツとの関連をかなり緻密に時代順に追いかけている。あとがきを読むと元々は昭和天皇ではなく「スポーツと皇室」というテーマで書く予定だったのが、たまたま筆者の入院生活で見たテレビで吹上御所のゴルフ場が野草で覆われてしまっている光景から「なぜ昭和天皇はゴルフをやめたのか?」など様々な疑問が派生して湧き出て昭和天皇に的を絞ったと開陳している。
確かに皇居内にゴルフコースやプールがあったことを私は知らなかった。そして幼少期から裕仁は様々なスポーツをやっていたことも。皇居の中には二つもプールがあった。吹上には二五m×八mのプール、明治宮殿内にも「奥のプール」があった。その上葉山の御用邸には「内庭プール」があったという。赤坂離宮には六ホールのゴルフ場が設けられていたが、裕仁の転居に伴い吹上にもゴルフ場が作られた。そしてこの吹上ゴルフ場に雪が降れば、スキー場に早変わり。太平洋戦争の戦時下でも奥のプールで天皇一家は水泳を楽しんでいたという。
大正天皇が幼少より髄膜炎を患った病弱な君主というイメージがあったためにそれをいかに払拭し、健康でたくましい君主というイメージへの変更をいかに行うかにスポーツは徹底的に利用された。基本は日本古来の武道や馬術であったが、必ずしもそれにとどまらずテニス・ゴルフ・スキーなどの西洋スポーツも動員された。むしろ西洋スポーツに興じる裕仁とその家族が活写されている。その記述が細かく時代を追って丹念に追いかけられているのだが、読むにつれてこんな考えられない環境を独占してスポーツしまくりの裕仁にだんだん腹が立ってきて冷静に読めない自分がいるのだった。
裕仁が割と自由にスポーツができた皇太子時代から天皇に即位し、戦争に突き進むにつれて敵性スポーツについては右翼からの圧力もあり、冒頭の「昭和天皇はなぜゴルフをやめたのか」との問いには日中戦争勃発と同時に右翼や軍部のみならず、「国民」からの批判も避けられないという有形無形の圧力があったと筆者は回答している。逆に馬術は白馬にまたがる天皇を「神格化」することに大いに役立ったと記述している。
筆者の最終結論はすっきりしている。「本書では、昭和天皇とスポーツの関係を幼少時代から追跡してきたが、そこで見えてきたものは、近代天皇制とのあまりにも強固な一体性であった。」そして「政治的なものから最も遠い位置にあると思われがちのスポーツとの関係も、実は総力をあげて取り組まれた国家的プロジェクトの一環をなすものであった」という指摘は的を射ている。そういう意味から再度オリンピックを捉えかえすことも可能であろう。玉体と臣民の体とスポーツのありよう。それは決して昭和天皇の時代で終わった構造ではない。
本書は戦後の昭和天皇とスポーツについてたった五ページしか論述せずに閉じられていることに私は若干不満を感じる。戦後の象徴天皇制とスポーツとの関係について「戦後における昭和天皇とスポーツ界は、天皇の『政治的身体』を介して、戦前よりもはるかに親密な形で結びついていたのである」という結論については異議はないが、戦前との比較を通じてむしろ戦後の天皇制とスポーツを仔細に論じてほしかった。特に戦後の「スポーツと天皇制」についてメディアの果たした役割などについて。しかしそれは読者である私たちに課せられた宿題なのかもしれない。
*宮崎俊郎(お・こ・と・わ・り実行委員会)/”Alert”3,2016.9