鵜飼 哲
2020年11月20日新宿アルタ前 スタンディング行動での発言
こんにちは。移住先の長野県松本市から失礼します。当地でもGO TO政策への期待と不安が交錯していますが、地元紙やSNSではコロナ感染拡大に対する政府の対応の鈍さの背後に「五輪」の影が次第にはっきり認識されつつあります。来年4月初めには「聖火」リレーが松本を通る予定になっています。長野冬季五輪反対運動の記憶を掘り起こしながら、こちらでも反対の声を挙げていきたいと思っています。
原発からコロナまで、複合災害のなかでオリンピックは更なる人災だ
私たちはオリンピックを「災害」であると主張してきました。2011年3月の大地震と原発事故以来、「災害」は私たちの日常の一部になってしまいました。とりわけ原発事故には「人災」の側面が非常に強かったのですが、オリンピック招致を私たちは新たな「人災」であると考えました。
招致活動の賄賂疑惑、開催費の膨張、開催予定エリアの環境破壊、住民無視の再開発、関連施設の突貫工事での労働者の犠牲・・・。どうしてこれほどの「無理」を重ねてオリンピックを招致する必要があったのでしょうか? 大メディアも五輪準備の問題点を時おり扱うことがありますが、この問いを発することはけっしてありません。あらためて思い起こすまでもなく、東京五輪招致の政治的動機と経済的動機には巨大な背景があり、文字どおり「無理が通れば道理が引っ込む」7年間でした。
コロナウイルスの世界的な感染拡大とともに、私たちを脅かす「災害」はますます複合的な性格を強めています。震災が引き起こした原発事故はすでに「複合災害」でした。招致された東京五輪は「復興五輪」を名目に掲げ、まるで被災地の復興が五輪を開催することで実現するかのような宣伝が執拗に続いてきました。
この春、「聖火」リレーのランナーに選ばれていた東京都練馬区のとんかつ屋さん、50台男性の方の焼死が伝えられました。みずから命を絶ったとみられていますが、五輪の延期と経営の不振でひどく落胆し、将来を悲観していた様子が伝えられています(東京新聞、5月3日)。このような痛ましいケースも、私は複合的な「五輪災害」の犠牲だと思います。
安倍、バッハたちの身勝手な振舞いが災害の連鎖を引き起している
コロナ禍のなかで困窮するこのような民衆の姿と対照的なのが、自称救世主たちの身勝手な発言です。安倍晋三前首相は「人類がウイルスに打ち勝った証」としてオリンピックを開催すると言いました。それに呼応するように、先日来日したトーマス・バッハ国際オリンピック委員会会長は、来年の東京五輪開催は「トンネルの先の光」と発言しました。まるでウイルスが五輪を開催することで退散するかのような宣伝がいまなお行われています。バッハ会長は記者会見でワクチン接種の費用はIOCが負担すると述べましたが、数ヶ月前には彼は、東京五輪はワクチンがなくても開催可能と言っていたのです。こうした矛盾だらけの言明を重ねて、彼はオリンピックが人命よりも大事という五輪至上主義をひたすら主張し続けているのです。
このところ報道が一気に増えたワクチンとはいったいどんなものなのでしょうか? 米国の巨大製薬会社であるファイザー社、モデルナ社のワクチンには、遺伝子情報操作によって生体細胞にワクチンを作り出させる、これまで認可されたことのない技術が使われています。この技術によって数ヶ月のスピード開発が可能になったわけですが、当然のことながら長期的な影響についてのデータはありません。これは五輪開催準備ととてもよく似た突貫工事ではないでしょうか。将来に禍根を残すような事態がワクチンによってさらに引き起こされる可能性がある、ひとつの災害が別の災害のきっかけになりかねないとても危険な時代に私たちは生きています。このようなワクチンの集団接種を、五輪開催を目的に拙速に進めるなどということはけっしてあってはならないことです。
バッハ会長が東京五輪の予定通りの開催を主張したというニュースに接するたびに気持ちが不安定になる医療従事者がおられることを、数ヶ月前、私はその方のパートナーのツイッターで知りました。私たちが11月13日に開催した五輪反対集会で発言してくださった看護労働者の方からは、コロナ感染拡大の対応に追われる東京の医療現場の危機的な状況について詳細な報告がありました。五輪の強行を本当に恐れている人々の声を、東京の仲間たちが果敢な抗議行動によって直接バッハ会長にぶつけたことはとても心強いことでした。この行動は世界的な反響を呼び、IOCや大会組織委員会の焦燥感や意見の不一致が大きく明るみに出る状況を作り出しました。
オリンピックは、地方に犠牲を強いる東京=メガポリスのメガイベントでしかない
本日のスタンディングは新宿アルタ前で行われていますし、オリンピックの開催都市は言うまでもなく東京なのですから、ここで小池都知事の発言を批判しておきたいと思います。昨日(11月22日)の毎日新聞とのインタビューで小池都知事は、「「米金融専門誌「グローバル・ファイナンス」が10月、世界の住みたい都市ランキングを発表し、東京はロンドンを抜いて1位になった」ことを喜ばしいニュースとして取り上げています。コロナ禍のおかげで東京の評価が上がったのは喜ばしいと言っているわけで、これだけでも倫理的に許しがたい発言です。
小池都知事はまた、「実際にオフィスで働く「リアル」とオンラインで働くテレワークが両方できるハイブリッドな都市として、東京の価値はさらに高まるはずだ。コロナはいくつもの新しい「チョイス(選択)」を見えるようにした」と述べていますが、長野の地元紙はテレワークが拡大した結果、感染の深刻な東京から人口流出が始まっていることを報じています。なにもかも自分に都合よく解釈するこのような論法はもはや滑稽と言わざるをえません。
そして極めつきは、「私は東京のパワーはやはり経済に根ざしており、消費、購買力に凝縮されていると思う。それにより、東京は地方にも大きく貢献できる。東京五輪の選手村には福島県で作った再生可能エネルギー由来の水素を運んでいる」という主張です。福島原発事故は、東京を始めとする電力の大消費地が、地方に原発を押しつけてきた構造的差別の果てに起きました。原発事故被災地である浪江町に復興の名のもとに建設された水素ステーション、そこで太陽光発電によって生産された「水素」を五輪用の電力供給に活用することで、オリンピックが「環境に優しい」という偽装をしようというのです。このようなイメージ操作は近年、「グリーン・ウォッシング」と呼ばれています。小池都知事の発想に、地方はエネルギーを供給し東京は消費するという従来のゆがんだ構造を変えようという意志は微塵もないことは明らかです。メガポリスでしかできないメガイベントとしてのオリンピックの本質は、このような形でも露わになっています。
オリンピックではなく民衆の生活実態に根ざした新たな共同性の確立を
東京五輪の中止だけでなく、前世紀どころか前々世紀の遺物であるオリンピックという事業の廃止を求めることは、これまでのメガポリスのあり方自体を問うことでもあります。世界的な気候変動の深刻な影響に対しては、中央による地方の圧迫や積年の利権構造を温存した小手先の環境政策ではなく、エネルギーも生活必需品もできるかぎり地産地消に向かう循環型の経済に舵を切るべきときです。オリンピックのホストシティなどもはやありえない、もうひとつの未来がその先に見えてくるはずです。押しつけられる「新しい日常」ではなく、民衆の生活実態に根ざした新たな共同性の確立が今こそ求められています 。そのためにはまず東京五輪を即刻中止し、ここに至る経緯の検証をしっかり行うことが不可欠です。五輪に反対してきた自分の根拠をあらためて見つめ直し、「災害」どころかいまや「犯罪」と呼ぶべきものにさらに悪質化しつつある「排除の祭典」の開催を阻止するため、皆さんと力を合わせていきたいと思います。
(小見出しは編集部によるものです)